【ツアーでご一緒の方へ】
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地図を入れました。ピンク線がGPSで記録した実際のルートです。地図の北は↑。南城門で下車し、北に歩き、バスに乗り、バイヨンで降りた。その後は、バプーオン、象のテラス、ピミアナカス、ライ王のテラスと歩いた。右は午後に見学したタ・プロームである。
午前11:00にバイヨンの観世音菩薩前、と言っても観世音菩薩はたくさんある。以下の場所に集まり、下に降りた。
★【バプーオン(Baphuon)】
バイヨンの北西に位置する。11世紀中頃、ヒンドゥー教の神シヴァに捧げられ、ウダヤーディチャヴァルマン2世 (Udayadityavarman II) の国家的寺院として築かれた3層からなるピラミッド型寺院である。バプーオン様式の原型となる。(バプーオン – Wikipedia)
バプーオンの前に到着。バプーオンは参道にも入らず、近くまで行かない。遠くから見るだけ。
★【象のテラス(Terrace of the Elephants)】
バプーオンを過ぎて50メートルほどで、壁面に象が見えた。象のテラスに到着だ。
アンコール・トムの城壁を巡らした都の一部である。テラスは、アンコールの王ジャヤーヴァルマン7世により12世紀末に築かれ、凱旋する軍隊を眺望する基壇として使われた。それはほんのわずかに残る遺跡のなかのピミアナカスの宮殿に取り付けられていた。元来の建造物はほとんどが有機素材で造られており、はるか以前に消失した。残っているもののほとんどは複合体の土台の基壇である。象のテラスは、その東面にあるゾウの彫刻にちなんで名付けられた。
延長300mを超える象のテラスは、公的儀式の巨大な閲兵席として使用され、また王の壮大な接見所の基壇としての役目を果した。テラスは、中央の正方形に向けて広がる5つの外塁をもち、中心に3つとそれぞれの端に1つある。擁壁(ようへき)の中間部分は等身大のガルーダやシンハで装飾され、両端近くには、クメールの象使いによるゾウの行進の2つの部分がある。(象のテラス – Wikipedia)
このテラス前に兵士を整列させ、テラスの上から、隊長が、「行け! 戦え! 負けるな!」と、兵士に檄を飛ばし、出兵させたそうだ。戦乱に明け暮れた時代だったのでしょうか。日本の皇居前広場。
この先に「勝利の門」がある。写真では見えませんが、いい名前ですね。
【ピミアナカス(Phimeanakas)】
象のテラスの中央で、「勝利の門」と逆の方向に門がある。門をくぐり、ピミアナカスに行く。
ヒンドゥー教寺院で、ラージェンドラヴァルマン2世(944-968年)統治時代の10世紀末に建造され、次いでスーリヤヴァルマン2世の統治時代に、3層ピラミッド構造のヒンドゥー教寺院として再建された。ピラミッドの最上部には塔があった。(ピミアナカス – Wikipedia)
修復中で近くには寄れない。
【ライ王のテラス(Leper King Terrace)】
旅行中は、暑くて、疲れて、どこをどう歩いているのかわからなかった。地図とGPSは旅行が終わってから見た。
12世紀末にジャヤヴァルマン7世によって建立、それ以前にテラスの原型があり再建築したもので、新しいテラスの奥に以前のテラスが残っていて二重の壁面になっている。象のテラスの隣にあり、ライ病にかかった王のテラスと言われている。写真の像はレプリカで本物はプノンペンの国立博物館にある。(出典)
なお、三島由紀夫の作品にここにちなんだ戯曲・『癩王のテラス』があるのは知りませんでした。
『癩王のテラス』(らいおうのてらす)は、三島由紀夫の最後の戯曲。全3幕から成る。三島文学の主題が色濃い最後の演目として重要な作品である。病魔に冒されたカンボジアの王・ジャヤーヴァルマン7世が、アンコール・トムを造営しバイヨン寺院を建設してゆく愛と夢の雄大なロマンを、月の王朝の衰亡を背景に描いた物語。(癩王のテラス – Wikipedia)